ベターノーマルへ

コロナはウィルスそのものの脅威よりも、私たちが見て見ぬ振りをしてきた脅威や課題をあぶり出してくれているように思います。

今回、大きな脅威を感じたのは、現代を生きる私たちが自分自身で感じたり、考えたことをもとに冷静な判断をする、という知性が失われてしまっていること。逆に、テレビや新聞などのメディアで言われていることを鵜呑みにしたり、SNSで見聞きする情報や自身の評価に過剰に反応する向きは、非常にナイーブな社会だと感じます。

そのような思考停止のもととなっているのは、社会に対して「私のちっぽけな力は及ばない」という無力感があるからではないかと思います。その原因として自分自身を振り返り、思い当たるものがいくつかあります。まず、日本の教育ではあらゆるものに正解があり、その唯一の解を覚えれば、優秀な成績を取り、希望の進路へ進むことができます。そのため、自分で答えを導き出したり、自分なりの考えを持つ必要はありません。また、資本主義社会においては、いかに競争に打ち勝つのか、安く効率よくマニュアル化を進めるか、というのが重要であり、個々の存在意義は人為的に低く扱われています。日々の生活を成すもの; 食べるもの、暮らす家、着る服、使う水やエネルギーなどを調達する基準も同様に、安く効率良く、ということが優先する。これらを作る過程を考えることや、それに関わることもない、というのは、生活を、つまり生きる活動を、すべて遠く離れた何かに依存していることであり、無力感を増大させ、無関心にも繋がるのではないでしょうか。

このようなシステムが基盤にある社会では、知性が養われないのは当然だと言えるのかもしれません。そして自然の摂理から外れた歪みのある社会は、心の病や自殺の増加という現象に如実に現れているのだとも思います。

さて、「新生活様式」という言葉は、今回初めて一般的になりましたが、現政府が2030〜2050年を目標に定めている「ムーンショット計画*」(内閣府ホームページ「ムーンショット目標」)に以前から記載されている事項。そもそも長期化する予測のないところで臨時的というよりも恒常的なニュアンスで提示されました。

このニューノーマルに納得できる人もいるかもしれないけど、私たちが大切にしたいものとは大きく異なります。私たちヒトは自然の摂理の中で、動植物や微生物などあらゆる生き物と繋がり合って生きている。ヒトの社会は、一人一人の意思や行動が作っている。そしてこれらすべての存在が、生きる営みが、かけがえなく大切、そんな実感を持って生きることが「ベターノーマル」ではないかと思っています。

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