恐怖を超える対話の力
コロナ騒動では、マスメディアが本来の役割である真実を伝えることよりも、不安や恐怖を煽るような報道が続けられています。(視聴率のためもあるし、政権がその恐怖を利用しているとも考えています)
実際は、様々な思惑やイデオロギーによって、これまでも似たようなことが起きていたと想像されます。今回の事象を第二次世界対戦になぞらえて揶揄する声もあり、言い得ていると思います。つまり、他国=ウィルスは悪であり、やっつけるために国民一丸となって戦おう!そのためには、一人一人が竹槍=マスクを肌身離さずに!と言った具合ですね…。
戦時下と違うのは、現代では情報を得るメディアが多数存在しており、また意見を話し合ったり、発信する「自由」があると信じられていること。しかし、マスメディアは放送免許制度で与党の思惑から外れたことは言えないし、Google検索やFacebook、Twitter、YoutubeなどのSNSを使っている限り、プラットフォームホルダーの影響から逃れることはできないのが実状のようです。
そこでやっぱり頼りになるのは、実際に顔と顔を合わせて人と対話すること。相手が正しいか誤っているか、と言う判断ではなく、自分とは異なる視点や感覚に気づくこと。つくづく感じるのは、私たちは対話によってしか成長することができない、ということ。自分が積み上げた知識や経験だけの主観で外に起きていることに反応していると、実に偏った考えや態度となります。それゆえ、人との違いを認めたり、自身の偏りに気づかされることは、恐怖でもあります。相手がどんな反応をするか、自分の言葉に耳を傾け、理解してもらえるのか、対話をする時にはそんな不安だって訪れます。そんな不安も含めて、自分の心の動きや世界の動きを俯瞰できるようになると、浅はかで短絡的な感情に動かされることも少なくなるように思います。
新生活様式では、この大切な対話の力が奪われているのではないでしょうか。
自分の内の小さな枠を越える恐怖を味わうのか、外の世界で本当に起きているかわからないものへの恐怖を味わうのか、じっくりと観察し、意識的に選ぶべきなのだと思います。